どうぞのごはん♯20 母のハンバーグ

クリスマスイブの日曜日、われらがKanAsamiが出演する「てるてるこぼうず」というライブに行きました。「巨峰3兄弟」さんというバンドが、一緒にライブしているのだけど、「群馬の歌」だったかな、「グンマ、グンマ、」と故郷群馬を誇る歌を歌っていました。巨峰さんたちは、群馬の出身らしく、2017年は、たくさん群馬で活動したそうです。

渋谷のライブハウスにて「てるてるこぼうず」で巨峰兄弟さんと共演するKanAsami(Tシャツはポンちゃんデザイン

最近は、youtubeなどで、アーティストも地方にいながらある程度メジャーな活動ができるようになり、移住や、2拠点生活ということもめずらしくなくなって、地方はどんどんステキになっているように思います。私が東京に来る前、30年ほど前にはまだ、インターネットなどなく、携帯電話もありませんでしたから、地方と東京の差は、今よりずいぶん大きかったんじゃないかな。

私は、表現し、発信し、共感を得たり、認められたりすることは、人が生きていく時に、ごはんを食べるのとおなじくらい大切なんじゃないかなあと思っているのだけど、そういうことが、以前はいわゆる地方(東京以外)ではどうしても狭い範囲でのできごとになってしまっていたように思います。それが、インターネットの発達によって、本当にどこにいてもだれでも、表現し、発信ができるようになり、劇的に世の中は変わってきたように感じます。

私の周囲の仲間は、地方出身者と、ここ二子玉川周辺に子どもの頃から住んでいた人とが半々くらいかな。私くらいの歳になると、子ども達も大きくなって、年末年始に実家に帰らない、という人もわりといるけれど、逆に、ちょくちょく老親の様子を見に帰らねばならない、という人や、完全に実家に戻る人もいます。

私の大好きな多摩川のほとり

私も父が亡くなる前、ほんの1か月ですが実家に帰って父が死ぬまで一緒に過ごしました。そのとき、もう大分に帰って住むことはないだろうな、私の生きる場所は、あの多摩川のほとりなんだなあ、と思いました。それは、地方だとか東京だとか、そういうことではなくて、コミュニティ、というか、仲間、というか。

最近言われている「8050危機」というのは、親80歳代で高齢になり、子ども50歳代でひきこもり、ということの問題を表すらしいですが、この年代は親は地方で独りぼっち(ひきこもり?)、子どもは東京で移住生活という人も多いのではないかなあ、と思います。私はといえば、18歳で東京にきてから30数年、もはや東京移住者。

子どものときは、自分で選ぶことができることが少なく、その生まれた場所の生まれた環境で生きていくしかないのだけど、大人になれば、自分で自分の生きる道を選ぶことができます。住む場所を決めて、一緒に過ごす人を選ぶことができるのです。自分で自分に合う場所をみつけて、生きればいいのです。それが、生まれ育ったところかもしれないし、東京かもしれないし、全然違う街かもしれない、アメリカや、アフリカかもしれない。だから、ギリギリの子ども達に出会うと、そんな状況の中でも「とにかくオトナになるまで生き延びて」と願います。

私の娘は、今、長女はアメリカ、次女は京都にいます。書類などで、「家族」を書く欄があると、ちょっと困ります。「同居の家族」とかだともっと困って、今、一緒に住んでるミキは、血はつながってないけど、家族じゃないのかなあ、と思ったり。そして、血縁といえば、母が九州の大分県、姉が東京にいます。

母は、認知症なので少し心配です。でも、最近は安い飛行機で帰れるようになったので、ときどき様子を見に帰ることができます。そういう移動手段の発達によってこういう私のような暮らしも可能になっていて、ありがたいなあ、と思います。年末年始、母がひとりぼっちではかわいそうなので、大分に帰ってきました。母には、もっと自身が過ごしやすいコミュニティがあればよかったのではないかと思いますが、コミュニティというのは、作ろうと思ってすぐできるものではないから、仕方なかったかなとも思います。

私の子ども時代の県庁所在地くらいの規模の地方では、家族は核家族化をめざして、親戚付き合いや、近所づきあいなどを最小限にし、ミニマムの単位(親子4人)で過ごすことを大切にする時代で、コミュニティといった親戚や、ご近所との繋がりを疎ましく思う傾向もあったと思うので、今の母のありようはある意味自然の成り行きのような。そして、私は大分に住むことを嫌って、当時大分には届いてこなかった情報と関係性があふれていた東京に行き、大学を卒業、就職、結婚、出産、子育てをし、そこでいろいろなつながりをつなげて、多摩川のほとりに暮らすようになりました。

何度か、母を東京に移住させようと計画を実行してみたのですが、どうも無理っぽい。ひきこもっていようとも、なんだかんだいいながら、自分の家で過ごすのが、どうも母の幸せのようです。その人にとっての幸せは、ひとりひとり違うんだよね。

花を買ってきて、置いといたらぱぱっと活けてしまう。いろんなことをたしなんだ人だった。

母は、とても料理が上手な人でした。子どもの頃は市営住宅に住んでいて、決して裕福ではありませんでしたが、母は「食べ物だけは節約しない」ということを自慢していました。(でも実は節約はしていて、カレー粉とチキンの炊き込みご飯は父がサラリーマンだったころの給料日前の定番で、結婚したときに「給料日前はこれよ」と教えてくれました。)そんな母も、今は料理を忘れてしまったのか、まったく料理をしなくなりました。病院で先生に「お料理を全然しなくなって」と私がぼやいたら、「お料理はよだきい(めんどうくさいというような大分弁)けんなあ、もうせんでもいいわ」と。母はどうも、お茶碗を洗うのと、洗濯は一生懸命やるようなので、とりあえず、母の家にいる間は私がごはんを作ろうかなと思い、作っています。冷蔵庫にはいつ買ったのかなあというような、謎の食材が手つかずで入っているのでなるべく使えるものを使っていきます。(普段は、宅配のお弁当を食べているので野菜を買っても使わないのだけど、野菜売りのトラックがきてくれるので買ってしまう様子)

母と同じ味のハンバーグ。母のごはんはいつもワンプレートに、お肉かお魚、キャベツの千切りにポテトソテー、トマト、だった。

今回はひき肉だけ買ってきて、私が母の作る料理の中で一番好きだった『ハンバーグ』を作りました。レストランのハンバーグはなぜかレストランの味がする。母のハンバーグの味には、ほかで出会ったことがない。そして、母に作り方を教えてもらった記憶がないので、どうしてだかわからないのだけど、私が自分で作ったハンバーグは母のつくったハンバーグと同じ味になるのです。

ここまで書いていたところで、今朝は突然ごはんを作ってくれました。毎朝、「私は朝はごはんは食べんのよ」と言っていて3日め。子ども達の成長は、いったり戻ったりですが、老いというのも、いったり戻ったりのようです。周囲の人は、それに翻弄されてしまいますが、そういうものなのでしょう。認知症の母とのことを書くとこれまた膨大になってしまいますが、すべての事は少しづつつながっているものなので、これも機会があったら少しづつ書いていきたいな、と思います。

年越しそばのレシピかな、と思ったけど、それはこれから作るので、今回はハンバーグのレシピ。

 

◆ハンバーグレシピ◆

・牛豚合いびき肉をよくもみます

・みじん切りにして炒めた玉ねぎとお肉、パン粉、牛乳、卵を混ぜます。塩コショウ少々。

・作りたい数と大きさにざっくりわけてまとめていきます

・手のひらの左右でお肉をいったりきたり、(10回~30回くらい)してハンバーグの形にまとめて、最後まんなかをへこませます。

・あれば、小麦粉を周りにつけます

・フライパンに油をしいて、両面2分づつくらい、強火で焼きます。

・ふたをして、弱火で10分くらい焼きます

・おはしをさして、透明な肉汁がじゅわっとでてきたら焼けています。

・赤ワイン(お酒でも)を入れて、ケチャップと、ウースターソースを入れます。

・お肉をひっくりかえしたりしながら、ソースをコトコト煮つめます。

・お肉をお皿に移してソースもかけます。

 

「どこにいるかより、何をするかが大事だよね」というコメントを娘のインスタグラムの投稿にみたとき、嬉しい気持ちになりました。2017年ももう終わり。コラム「どうぞのごはん」も20回書くことが出来ました。読んでくださってありがとうございます。

来年も、どうぞ、よろしくお願いします。

どうぞのごはん♯19 道楽:和菓子・ローストチキン

http://futakoloco.com/column/murakami/4388

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この記事を書いた人

ゆか

サラリーマン時代に東急ハンズ玉川店、玉川高島屋を担当し、ここいら辺が気に入って移住。岡本の坂下に住み、母となり産んだ子どもたちはもうオトナ。2005年から鎌田で子どものアトリエを始め、2016年に大蔵5丁目「ゆいまあると3つの磁石」に引っ越し「子どものアトリエ」「映画とキャラメル」など、よくわからないことを展開中。NPO法人せたがや水辺デザインネットワーク事務局。