令和4年1月2日。2年ぶりに、九州の母に会いに行きました。
子どものころ、プロペラ機が発着する空港の近くの市営団地に住んでいて、たぶんそんなにお金はなかったけれど、うちにはお風呂がありました。まだ、団地の私たち4人家族が住んでいた建物以外にはお風呂がなく、団地に住んでいる人は、私たちが住んでいる建物の1階にある銭湯に来ていました。それがまだ当たり前でした。
私は、団地の近くにあった幼稚園に通っていました。「いってきま~す」とひとりで、行って、「ただいま~」とひとりで帰ってきていました。幼稚園はお弁当だったけれど、たまに、白いパンがアルマイトのお皿にのせられてくる「給食」があって、そのパンを勝手に「おしりパン」と呼んでいました。幼稚園にはテーブルとかはなくて、小さな子ども椅子をテーブル代わりにして、床に正座して、その「おしりパン」に小さなバターを塗って食べるのがとても楽しみでした。
私の母は、今、85歳です。第二次世界大戦の終戦時に小学校の2年生だったと聞きました。母の兄は、戦争中に破傷風で亡くなり、母は一番下の10歳離れた弟をおぶって薪拾いをしていたとも聞いたことがあります。
私の祖母(母の母)は、大正生まれの東京新宿の人でしたので、母のお雑煮は関東風でした。大晦日には、いつも母はおせち料理を作っていて、私は姉と父とテレビを見ながら、昆布とスルメをハサミで細く細く切るのが恒例でした。それは、お雑煮の出汁と、数の子の出汁に使われるものでした。子どものころ、狭いアパート住まいだったけれど、お正月には父も母も私たち子どもも着物を着て、「あけましておめでとうございます」と食卓を囲み、母の作ったおせち料理を食べました。
私が結婚するときに、母は「おせち料理」のレシピを書いてくれました。
2014年に父が亡くなり、今、母は田舎のマンションの1室で一人暮らしをしています。母は、父の介護をしている時に、認知症になりました。そのころに比べると、今のほうがしっかりしているように思いますが、さっき食べたことは忘れてしまいますし、父が亡くなってからは、なにしろ料理を全くしなくなりました。
私と入れ違いで東京に戻った姉(姉は東京でサラリーマンをしています)が、おせち料理を作ってくれていました。
今回の帰省にあたり、駅前で無料の抗原検査が受けられたので、検査を受け、結果を待つ間に母が好きな「太巻き」を買っていきました。歯があまりよくない母は、お米のごはんをあまり食べなくなっているのですが、巻きずしが好きなのです。母は、ものすごい勢いで、食べられる(飲み込める)ものをどんどん食べます。
「お餅食べられるんかなあ?」と聞いたら、食べられるというので、お雑煮を出したら、普通に食べていました。そのことをケアマネさんたちに話したら、ものすごくビックリしていました。本当は?、食べられなかったのかもしれません。
毎日お昼にヘルパーさんが美味しいお食事を作ってくれて、「夕食」「朝食」も作り置きしてくれたものを食べているようです。このようなスタイルに落ち着くまでには、お弁当を頼んでみたり、ネットショッピングしてみたりと紆余曲折があったのですが、母はなんだか穏やかになっていました。
「ママ、丸ボーロは1日1個やで。日付を書いちょくけん、確かめてから食べるんで(アドベントカレンダーか?)」と、2個めのお菓子を食べようとする母に言うと、「子どもみたいやな」と笑い、自分の「ボケ」を受け入れ、とてもいい感じでした。2年前には、こんなに穏やかではなかったように思います。
人は、いえ、生きているものはみんな、何かしら食べます。食べないと生きられません。生きている限り、食べるのです。~つづく
~わが家の具だくさんお雑煮~
- スルメ、昆布を細く切る
- カシワ(鶏肉)を小さく切る
- にんじん、だいこん、かまぼこ、レンコンなどいちょう切り
- 水菜・は適当に切る
- 材料を煮る
- 酒・しょうゆ・みりんで味付け、足りなければ塩少々
- お餅は焼いて、お椀に入れて、温めたおつゆをかけます。
- 三つ葉と柚子の皮をちょっぴりのっけてできあがり。
※特別にもちふをいれることもあります。