どうぞのごはん♯28 8月がくるたびに~スイカ~

暑かったり、台風がきたりと、なんとなく忙しい夏ですが、野川でガサガサしたあとにみんなでキュウリを食べたり、スイカを食べたり、カレーを食べたりして過ごしています。

 

・お代わりは、周りにいる人が全員食べ始めているか確かめてから。

・きゅうりの味噌マヨネーズは二度づけしない。

・スイカの種はそのへんに飛ばせばいいよ。

こういうことは、キマリとか、禁止事項とかではなくて、ふふふ、と笑ってしまうような当たり前の事のようですが、実際にみんなでごはんを食べよう!というときには時として、何度も、こういうことを説明しなければいけなかったりします。

6月の生きもの観察会ではキュウリをみんなで食べました。水分補給に美味しくて最高!(味噌マヨ2度づけ禁止!)

 

「当たり前だと思っていることを何度も説明しなければいけない」のは実はかなりの人ひとりひとりが、「考えることをしない」からではないかと思うのです。

街でイベントを開催(大勢の多世代が集まる)したり、NPOを作ったり(東京都や世田谷区、税務署などとのやり取りをする)していると、自然のいろいろな不思議な仕組みや出来事とは別に、社会の仕組みや制度やキマリという「誰かが作ったもの」に自分の知らない事が山ほどあるなあ(半世紀も生きてきたのに)ということに驚きます。そして、「どうして?」という疑問も湧いてきます。

疑問が湧いたときは、「どうして?」「なんのために?」ということと、「その結果どうなるか」ということを考えます。

ことし最初のスイカは黄色でした!

私の場合は、何かしら申請したり、報告したりで書類を作る事が多いのですが、これは、子どもの時にやった宿題や、テストに似ています。何かをやるために誰かに判断してもらうために提出するのですから、「どうしてやりたいのか、」「なんのためにやるのか」「やった結果どうなるのか」「そのことは自分が目指していることに合致するか」を考えるのはもちろんなのですが、同時に、「これを受け取る人は何を書いてほしいのか」ということを考えることが必要になります。このことは、何のために行われ、この書類を見た人は何を目指していて、何を知りたいのか、を考えたり、探ったりするのです。

そうすると、意外にも、自分が考えていることと、まったく違うことを受け取る側は考えていたんだということや、「この人は何も考えていなかったのか!」ということがわかったりします。

真ん丸の大きいスイカを切るのはワクワクして嬉しい。

最初の話に戻りますが、カレーを配ったり、スイカを切ったりしていると、明らかにまだみんなに行きわたっていないのに、お代わりに来る人がいます。子どもだけではありません。子どもだけではありませんから、たぶん、このようなことでも、子ども達にきちんと説明していかないと、大人になったからといって自然にはわからないのかもしれない、と最近思うようになりました。

というよりも、「なぜか」を考える、やるからには理由がある、ということを「当たり前のようなこと」をやる場で「考えるくせ」をつけていった方がいいのではと思いはじめました。それは、ある種の「想像力」でもあると思います。

7月の「みんなのみなみ池」丸子川のガサガサで食べたスイカ

先の3つのことを考えてみます。

・お代わりは、周りにいる人が全員食べ始めているか確かめてから。

みんなで一緒に遊んだり、働いたりしたのだから、美味しいごはんをみんなで食べたい。食べ物は用意してあるけど、食べれば減っていくので、全員食べてないのに先に食べた人がお代わりしてしまったら、全然食べられない人が出て来るかもしれない。もし、食べられない人がいたら、その人もかわいそうだし、悲しい気持ちになるだろうし、腹をたてるかもしれない。その人の分を食べてしまった人も気持ちよくないだろうし、食べた人と食べなかった人がいたことを残念に思う人もきっとたくさんいて、美味しい気持ちも減っていってしまうし、楽しくなくなってしまう・・・。当然、お手伝いをしている人(配っている人)も一緒に活動していたのだから、お腹がすいているだろう。あそこで働いている人は、もう食べたかな?・・・ここまで考えたら、自分が「お代わりしていいですか?」と聞く前に「みなさんにいきわたりましたか?」ということを思いつくはずなのです。

 

・きゅうりの味噌マヨネーズは二度づけしない。

この味噌マヨネーズはひとつの器にはいっているから、みんながこの器からとって食べるのだ。味噌マヨネーズがみんなに行きわたるだろうか、他人の口に入ったものをみんなのものにもう一度つけると、いやだなと思う人がいるかもしれないな、と考えれば、ふつうは、言われなくても「二度づけはしない」のです。

 

・スイカの種はそのへんに飛ばせばいいよ。

種はゴミではない。河川敷ならそのへんに飛ばしてしまえば、もしかしたらスイカの芽が出てスイカが生るかもしれない。種を鳥がどこかに運んでくれるかもしれない。でも人に向かって飛ばしたら、あたっちゃうかもしれないな。当てちゃったら喧嘩になるかも。それに、もしかしたらスイカが生えるかもしれないから、生えそうなところに飛ばした方がいいな。皮も結局は自然に還るけれど、大量にその辺に放置すると蠅が集まってきて、いやだな。もしそんなことになったら、「ここでスイカを食べないで」という意見もでるかもしれないから、皮は集めて持って帰らなくちゃいけないだろうな・・。

きゅうりもスイカも全部大蔵の畑から。このスイカが最後。大蔵の畑は道路になります。とても残念。

 

ただ、「お代わりしてもいい?」と聞く前にちょっと自分で考えてみればいいのではないかなあ~と思いますが、実際には聞かれることも多いし、勝手にお代わりしてしまう人もいるので、「考えない」人もいるのかなと思います。実際に、参加者の人が配膳を手伝ってくれていて手伝っていた方や、スタッフの分がなくなってしまったことがあり、朝から一緒に活動していて、みんな同じに食べていないことはわかっているのに不思議だなと思ったことがあります。

何かをやるときに「そうしろと言われたから」「みんなやっているから」「ずっとそうだから」「キマリだから」やるというのではなく、「どうしてやるのか」「やるとどうなるのか」を考えること、そして、どうしてもわからなければ、「聞く」こと。いろいろなことはすべてつながった結果としておこるので、そういう「考えること」「想像すること」を身近な暮らしの中で身に着けていくことが、今の子ども達に(もしかしたら一部の大人の人にも?)大切なことなのではないかと思うのです。そのためには、子ども達の問いかけに真摯に答えなければならないといつも思っています。

子ども達は、「なんで?」と聞きます。そのときに「どうしても」とか「キマリだから」というのではなく、考えて答えます。はっきりと正解でないかもしれないなら、「~だからじゃないかな」でもいいし、「私はこうだと思うけど、どう思う?」でもいい。もし、自分で考えてもわけのわからないキマリだったら、子ども達の疑問の方が正しいのかもしれません。そうしたら、気が付かせてくれてありがとう、ということで、そのキマリの意味はなんなのか、考えるべきかもしれません。もしかしたら不必要なキマリかもしれないし。(ほら、ブラック校則、のように)

あそびの日には、高校生、大学生のボランティアさんがたくさん。お手伝いのお礼にスイカを切りました。

 

いまから73年前の今日、1945年8月9日11時2分、ヒロシマに続き、ナガサキに原爆が落とされました。どうして、2か所に原爆を落としたのでしょう。もし、これからまた戦争が起こったら、どうなるのでしょう。原爆がまたどこかに落とされるのでしょうか。

世界には今なお、戦争をしている国もあります。なぜ、戦争をしなければいけないのでしょう。どうして沖縄に基地を作るのでしょう。なぜ、原子力発電所はなくならないのでしょう?

8月のあそびの日で「おさかなのはなしをします~」みんなで川であそぶのは本当にたのしい。

 

夏になり、たくさんの子ども達、大人たちと川に入り、河川敷で色々な人たちとごはんを食べていて、このささやかな毎日がいつまでも続くようにとスイカを切りながら思います。

 

人は一人一人、とても小さくて自分ができることはとても少なく、届けられる範囲はとても狭い。けれど、一人でも自分で考え、想像し、行動することはできるのです。私のできることなんて何もないけれど、せめてスイカをくばりながら、ささいなことでもきちんと自分で考えて行動していくことが大事だということの端っこでいいから感じてほしい、と思うのです。

 

■みんなでスイカを食べる時の切り方

丸のスイカを櫛形に16等分(四等分の半分の半分)します

舟形になったスイカをななめに切ります。これで、32個。

もっと小さくするときは、さらにななめに包丁を入れます。64等分できます。

どうぞのごはん♯27 水辺ごはん会〜鳥ハム〜

http://futakoloco.com/column/murakami/6262/

名称
所在地
世田谷区玉川3-2-1

この記事を書いた人

ゆか

サラリーマン時代に東急ハンズ玉川店、玉川高島屋を担当し、ここいら辺が気に入って移住。岡本の坂下に住み、母となり産んだ子どもたちはもうオトナ。2005年から鎌田で子どものアトリエを始め、2016年に大蔵5丁目「ゆいまあると3つの磁石」に引っ越し「子どものアトリエ」「映画とキャラメル」など、よくわからないことを展開中。NPO法人せたがや水辺デザインネットワーク事務局。