どうぞのごはん#48 生きること食べること:後編~おせち料理:数の子のお醤油漬け~

 人は、いえ、生きているものはみんな、何かしら食べます。食べないと生きられません。生きている限り、食べるのです。

どうぞのごはん#48 生きること食べること:前編~お雑煮~からつづく

 私の父は、嚥下がうまくいかなくなり、胃ろうをすすめられましたが、断りました。最後は骨と皮だけのようにやせ細り、結局、のどを詰まらせて亡くなりました。今でも、その判断(胃ろうを断ったこと)がどうだったのか、考えることがあります。

父と一緒によく川に散歩に行きました。

 私は2年間だけですが、訪問介護の仕事をしていたことがあります。わずかな期間でしたが、その経験は、今、ケアマネージャーさん、ヘルパーさんたちに、母のことをお願いするときにとても役に立っています。認知症でありながら、毎日何らかの支援を受け、自宅で一人暮らしができているのは、ケアマネさん以下ヘルパーさん、看護師さんなどチームのおかげです。

 遠い九州に両親を残し、東京で結婚し、果たして親の世話をどうするか、なんて全く考えていなかった私。父の介護の時に出会ったケアマネさんとは、10年のお付き合いになるところで、本当にいい出会いで感謝しかありません。

17歳。ときどきお散歩。(YU撮影)

 私が母のところに行っている間、娘が、17歳の犬の世話をしてくれました。もう、随分と歳をとっている犬なのですが、自分で歩いて、ごはん(パンと牛乳ですが)を食べ、自分でトイレに行くおりこうさんな犬です。が、なにぶん、歳です(人間なら100歳くらいかな?)から、なるべくストレスなく、過ごしてほしいし、とにかく心配なので、娘に留守番を頼みました。

 私は、(なんちゃって)おせち料理を作って、重箱に詰めて置いていきました。お留守番の間、娘は、お重に詰まったおせち料理と、お雑煮を食べて過ごしたようです。重箱のおせち料理は便利です。

元旦に食べ始め、3が日、食べ続けてくれていたよう

 父も母も高度成長期という時代にがむしゃらに働いていました。母は、デパートの食堂で、私たち姉妹の前で「ママ、おうちの外でお仕事をしようと思うの。いいかな?」と言い、姉はメソメソ泣きました。私はなにもわからず、「いいよ!」と言いましたが、鍵っ子になり、母が帰る前に洗濯物を取り込まなかったといっては叱られ、お米を研いで母の帰りを待ち、疲れた母にガミガミ言われるのが本当に嫌で、小学校2年生の時に「あんな母親には絶対にならない」と固く誓ったことを今でもはっきりと覚えています。

 1988年、私がサラリーマンになった時は、「24時間働けますか?」とCMで推奨されていた時代。雇用機会均等法(1985年制定1986年施行)にのっとり、総合職として会社に配属されました。私は、今まで、雇用機会均等法について、全くといっていいほど意識していなかったので、ちょっと調べてみたら「施行当初、各種差別禁止の項目の多くは努力規定だったが、1999年の改正により禁止規定」になったそうで、どおりで、仕事や目標は周りの男性と同じだったけれど、お茶くみやお酌は当然のように推奨されていました。

 この年(56歳です)になって、時代の移り変わりと、その繰り返しみたいなものをすごく感じるようになりました。半世紀、生きたからでしょうか。あることを、当たり前に思うのは、そのことを「当たり前」だと思って育ってきたからに過ぎないのかなあと思います。私が感じてきた「当たり前」が、通用しない世界になっていると同時に、「通用しない」と思っていた私の母たちが育ったころの「当たり前」が、新しい世代の「新しい当たり前」になっていくのかも、と思うことすらあります。

黒豆は、今回お友達が煮てきてくれた。

 自分が思い込んでいる「当たり前」は「当たり前」ではないのかもしれません。みんなが「なんとなく」ニコニコ暮らせるようになって、だれも後ろめたさや、焦りを感じないで毎日おいしいごはんが食べられるのが「当たり前」になったらいいなあ、と思います。

元日には東京にいて、何人が人が来ました。おせちの持参もあったので、大きなお皿に盛ってみました。

 母が、たまに「生きるのは大変だ。早くお迎えこないかな」と言います。いろいろなことを忘れてしまうので、起きて、テレビを見て、思いついたことをやり、作ってもらったごはんを食べて、たまにはお風呂に入り、寝る生活。ちょっとうらやましいような生活ですが、それが、今、母が生きる上での「大変」さ。どんなことでも、その人が感じる「大変」さは、人それぞれ。その人にしかわからない。

 ちょっと前までは、「お迎えがこないかな」なんて言われると、どうしたらいいんだろうと、困って悲しくなっていましたが、2年ぶりの私は「生きるのは、大変かもしれんけど、みんな死ぬまで生きるんや。誰にも誰かがいつ死ぬかはわからん。そやけど、みんな、死ぬまで生きるんや。」と言えました。母は、「そうやね~」と返してくれました。

 変な言い方だけど、死ぬまで元気で生きてほしいのです。「じゃあね、また来るね」と言ったら涙がでました。別れ際、見えなくなるまで、私を見送ってくれる母だけど、「無事についたよ」と電話をしても私がさっきまで家にいたことは忘れています。でも、そうやって忘れてくれるから、東京に帰ってきても「おいてきちゃった」という後ろめたさを感じないでいられるのです。ありがたいな、と思います。

 さて、今回のレシピは、お正月だけ食べられた「数の子」。父の好物でした。数の子を塩抜きしてボールに入れて薄い膜をとるのも、大晦日の父と私の仕事でした。

~おせち料理:数の子のお醤油漬け~

① 塩蔵の数の子の塩抜きをします(塩水につけ水を変えながら5時間~8時間くらい)
② 水を張ったボールの中で薄い膜を取り除きます
③ かつおだしに細く切った昆布を入れ、酒、醤油、みりんをいれて煮立てる
④ ③を冷まして塩抜きした数の子をつける

母の書いてくれたレシピ。なんか違うけど・・。

ローストビーフもおせちかな?

 

この記事を書いた人

ゆか

サラリーマン時代に東急ハンズ玉川店、玉川高島屋を担当し、ここいら辺が気に入って移住。岡本の坂下に住み、母となり産んだ子どもたちはもうオトナ。2005年から鎌田で「子どものアトリエ」を始め、2016年に大蔵5丁目「ゆいまあると3つの磁石」という場を開設、「子どものアトリエ」「映画とキャラメル」など、よくわからないことを展開。2021年、岡本から玉川4丁目の空き家(通称たまよん)に1年間入居。2023年、「ゆいまあると3つの磁石」近くに建った家に転居、「あめます舎」と名付けて家開きしている。NPO法人せたがや水辺デザインネットワーク所属。