本記事は、二子玉川の地域メディアfutakolocoの開設10周年記念企画として実施するシリーズ「二子玉川『継続』のまちづくり」の第1弾です。
2011年の東地区再開発第1期、2015年の第2期完了から約10年。街の骨格が整った現在、二子玉川は「つくる街」から「育っていく街」へと移行する段階にあります。
シリーズ第1弾では、街がどのように継続してきたのか、その構造と現在地を捉え直します。企業と地域をはじめとするさまざまな立場からの発言を通して、街の見え方の違いと共通認識を可視化します。
「街の変化と現在地」をテーマに、東急株式会社、東神開発株式会社、玉川町会という異なる立場の三者による対談を、前編・中編・後編の3回に分けて掲載します。
シリーズ第2弾以降では、次の担い手や新たな関わり方を通して、二子玉川のこれからを掘り下げるとともに、アニバーサリーイヤーである2026年度を通じて、開設記念日である2027年3月10日に向けて継続的に展開していきます。
前編:再開発は何を変え、何を残したのか

東神開発株式会社の菊山みち氏(以下、菊山)は、再開発以前の二子玉川について、幼いころの「遊びに来る場所」「晴れの場」としての記憶を語る。料亭や遊園地があり、「大人の遊び場」としての性格も持っていたという。
その街に本社を置くデベロッパーである東神開発に1987年に入社した菊山は、東地区再開発について「社内で不安視する声は少なかった。街の拡がりが楽しみだった」と振り返る。

その理由は明確で、東急との協働関係が「前提」として存在していたからだ。創業者同士の時代から「一緒に街をつくる」という認識が共有されていたという。
実際、当時、民間再開発としては都内最大級とされた総開発面積約12.1haの開発は、一企業単独ではなく、「二子玉川東地区市街地再開発組合」による関係者協働の事業として進められた。
1993年に東急に入社し、沿線商業施設の運営・開発や不動産管理(アセットマネジメント)に携わってきた山室幸司氏(以下、山室)は、別の視点を語る。
それは「住民の存在」である。

二子玉川の東地区再開発は企業だけでは成り立たず、1982年から始まった地元住民との膝詰めの対話の積み重ねによって成立したものだったと語る。
「行政の支援を得ながら、地元住民・権利者との丁寧な合意形成を重ねて進められた点が、この街の特徴である」という。
東京の浅草から、1945年3月10日の東京大空襲の日に父におぶられて二子玉川に移り住んだ玉川町会の中村輝之氏(以下、中村)は、実際に街の中で「長年積み重ねてきた」側にいる。

現在も続く町会の活動の多くは、再開発後に始まったものではなく、環境美化や防犯活動など、長年にわたって続けられてきたものだ。
同様の取り組みが区内の他地域でも行われていた中で、「現在まで継続しているのは玉川だけ」という言葉が印象的だ。
2011年、この東地区再開発(二子玉川東地区第一種市街地再開発事業)によって街は拡張され、1041世帯の新しい住民が加わった。
また、2015年の第二期工事(二子玉川東第二地区第一種市街地再開発事業)竣工時には、「働く街」としての機能も導入され、楽天などの企業が進出した。
しかし、当初想定されていたような「インバウンドの増加」や「観光地化」は起きておらず、住民中心の街という性格は維持されていると、三者は共通して認識している。
つまり、変化は確かに起きたが、その変化は「方向を変えた」というよりも、「層を重ねた」と捉える方が近い。
二子玉川は、再開発によって「新しくなった街」ではない。
既存の関係性の上に、新しい構造が重なった街と言えるのではないだろうか。
※中編「継続」はどのように生まれ、続いてきたのかに続く(4月22日水曜日公開)
※後編:これからの二子玉川に、何を残すのかは、4月24日金曜日公開予定
